ここに画像をあげている昭和五十四年の名簿に載っていた、町会の歴史を採録しました
其の昔かつて麻布に古川町という町があった。麻布新堀町の前身である。町中を古川という小川が流れていた為の名である。現今通称古川といっている川は白金御殿を造った時、渋谷川の下流を改修し堀割ったもので、元禄十二年(1699年)に完成し、麻布の新堀と唱えた。従って新堀川というのが正しく、古川は新堀川へ合流する小流れの名にすぎない。
新堀川に架る三之橋の北に東町小学校がある。
前述の如く新堀川は明治後期頃までは流れ清冽を極め、多くの魚影が見られ近隣の文人墨客の憩いの場でもあったと古老より聞く。
以って麻布新堀町の名称が作られた。
時移り世が替り明治末期から大正の初期にかけて新堀町内には大きな邸宅ありて、電々公社社宅は兵藤家であった。二番地、三番地の一部四番地の全域の大地主であり。東京ガス麻布営業所は藤岡邸、富士銀行及び小田島金属の一円は塚本邸、富士写真は麻布獣医専門学校、古川橋病院は磯野邸であった。
又四番地末永家の持家でトタン葺コールタール塗の粗末な四軒長屋の二軒目に、上品で気位の高い婦人が老婆と白皙の少年をともなって来往した。少年の名は高間義雄と云った。やがて少年は東町小、麻布中、一高、帝大文学部を経て、浅草の灯、外の私小説、純文学で、 文壇にデビュー、相州鎌倉に移り住み、ガンと闘い乍ら日本近代文学館を創設した高見順氏である。
大正初期に町内有志により新堀町睦会が発足し、四番地の鈴木広吉氏(大工職)が会長となった。これが我新堀会の母体である、大正十二年九月一日関東大震災に際しては、下町区部の大被害にもかかわらず当町は火災皆無で、損害は微少であった。其の後麻布新堀町会と改称し益田左右治氏が初代会長となり健全なる自治会としての基盤が確立した。
第二次世界大戦末期昭和二十年五月の大空襲には不幸にも90%が罹災焼失し僅かに、三の橋電停前十数戸、労働学園周辺の一画が焼失を免れた。
勿論周辺町会も罹災、強制疎開、家屋は取壊され、一望の原野となり昭和二十年八月十五日の終戦を迎えた。唯古川橋病院のみ急救(ママ)病院として残った。(戦い済んで日が暮れた)が、官製町会に等しかった旧町会は雲散霧消した。
やがて疎開先或は軍隊より解放された人々が、生活の糧を求めて戻って来たので、新広尾二丁目と合併して親交倶楽部を組織し、会長に鈴木篤真先生が就任した。昭和二十五年にそれぞれ分離独立して麻布新堀会を発足、会長渡辺孫市氏が就任され、以後皆様御存知の如く、 昭和二十八年会長宇賀神金四郎氏が就任され、会名を麻布新堀町会に改め規約を制定して、新たに理事長制を敷いて町内自治運営の円滑を計っております。昭和四十年新住居表示制定されたのを機に南麻布新堀会と改称、昭和四十二年放射一号線拡巾完成街区も一変し、現況の如くであります。
昭和五十年十月十一日、永い年月に渉り区政に又電設業界にそして町会自治、広い地域社会に貢献された、宇賀神会長が永眠されました。謹んで御冥福をお祈り申上げます。
今般昭和五十四年度会員名簿作成に当り、広告印刷業者に依頼せず会が自主的に作成致しました。従って町会役員の方々の御足労及び広告を頂いた御協力者に深甚の感謝と御礼を申上げます。
昭和五十四年十月
南麻布新堀会
会長 皆川定八